最高峰の化粧品をライン使いよ

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ゲラン

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最高峰の化粧品をライン使いよ

ゲラン

日本で日本の化粧品を山ほど買っている中国人からすると、『クレ・ド・ポー』の資生堂や『インプレス』はカネボウ『コスメデコルテ』はコーセーなどは日本のメーカーなので、中国人からみると舶来品でもあります。そして日本人は『ゲラン』であったり『ラ・プレリー』だったり『ドゥ・ラ・メール』といったものは舶来品で外資の化粧品になります。

海外コスメが大好きな人もいますよね。それこそ『ランコム』の化粧水など、日本で売られているサイズよりもっと大きなサイズが免税店や海外の渡航先で売られていたり・・なんか得した気分を味わえるので、免税店では絶対化粧品売り場だけはチェックしたくなりますよね!基礎化粧品はやっぱりいつも使っているものじゃないと嫌だわ。という方も免税店では口紅だったりチークだったりと色関係のものをついつい手にしてしまいます。

日本人の私たちからすると、日本でエステティックも展開している『ゲラン』など気になりませんか?

お肌もっちもちを目指して…

ゲラン

『ゲラン』のイメージは大人の成熟した女性が使ってるという勝手なイメージがありますが、「オーキデアンペリアルシリーズ」はロイヤルブルーの色が印象的です。「オーキデ」という名前は「ORCHID」オーキッド蘭からネーミングされました。「オーキデアンペリアル」シリーズは、オーキッド(蘭)の生育環境に着目して開発されたラインです。

蘭は長寿を誇る花でもあるので、生命力の強さが魅力的です。その蘭の花は昔から永遠の美の象徴としても珍重されていました。風に運ばれた種は、過酷な自然状況の中でもしっかりと根を張って、そしてあの美しい花を咲かせます。蘭の中にある品種には、100年以上も生き続けている品種があるそうです。

そしてゲランも、とても古い歴史を持っているフランスの香水と化粧品会社です。

話題の化粧品

ゲランの歴史

1798年(日本は江戸時代)に、ピエール=フランソワ=パスカル・ゲランはフランス北部のピカルディ地方に生まれました。ピエール=フランソワ=パスカルは白目細工職人の父親との確執で、生まれ故郷のピカルディ地方の故郷を後にしてイギリスに渡りイギリスで石鹸製造に携わりました。そして化学と医学も学びました。

1828年に、イギリスからフランスへ戻った後のピエール=フランソワ=パスカルですが、伯父が所有しているパリ・リヴォリ通り42番地のオテル・ムーリスに最初のブティックを開きました。ここからゲランの歴史は始まりました。

まずピエール=フランソワ=パスカルは、イギリスからの輸入した石鹸を販売します。そして複数の花の香りを使った香水を調香して、上流階級の顧客から支持を集めていきます。その当時は、単一の花の香りで生成される香水が主流でした。香水は直接身にまとうのではなく、ハンカチや手袋・シーツに香りを付けていました。ゲランはフレグランス、スキンケア製品を扱う店として始まりました。

ゲラン創業

1830年にボルドーワイン入りのリップクリーム「ボーム・デ・ラ・フェルテ」 (Baume de la Ferté) と、現存の原型になるリキッド状のリップ「リキッド・ローズ・エキストラクト」 (Liquid Rose Extract) を発売しました。

1840年にはコールドクリーム「ア・ラ・フレーズ・プール・タン」 (Crème à la fraise pour le teint) を発売しました。オーストリア皇后のエリザベートが、このコールドクリーム愛用したと伝わっています。

1842年にゲランは、ベルギー女王から御用達許可書を受けることになります。そしてさらに1844年にイギリスのヴィクトリア女王の御用香水商となります。このことなどから、ヨーロッパの王侯貴族から支持を集めていくことにありました。そして、同年の1844年にパリの中心地ラ・ペ通り15番地に店舗を構えることになりました。

1851年にはロンドンにも出店することになりました。(ゲランがラ・ペ通りに進出した時期は文献によって異なっていて、他にも1840年・1841年・1848年の記述が見られています。

1853年(日本はペリーの来航があった年)に、ゲランはナポレオン3世の皇后ウジェニーに「オー・デ・コロン・イムペリアル」 (Eau de Cologne Imperiale) を献上しました。この香水は1830年に調香した「フルール・ドゥ・セドラ」 (Esprit de Fleurs de Cedrat) を、ポシェ・エ・デュ・キュルバル社が製作した香水瓶「ゴールデンビーボトル」に封入したものです。中にはシトラス系の香水「オー・デ・ゲラン」 (Eau de Guerlain) を封入していたという説もあります。

この香水瓶は帝政様式を持っていて、ラ・ペ通りにあるヴァンドーム広場の円柱をモチーフにしていて、ナポレオン3世のシンボル「69のミツバチ」の意匠を側面に純金を用いて描き散りばめていました。

ピエール=フランソワ=パスカルはこの香りの成功によって【帝室御用達調香師】の称号を得ることになりました。ピエール=フランソワ・パスカルは1864年に亡くなりましたが、息子のエメとガブリエルが調香と経営を分業して受け継いでいきました。

2代目エメの時代

ゲランはニキビやニキビ跡の赤みをケアする「クリーム・カンフレア」 (Crème Camphrea) を1870年(明治3年)に発売しました。(まだ日本ではにきび跡の赤みケアの発想などまったくなかった時代に!)翌年には、 初めてのスティックタイプのリップ「ヌ・ムブリエ・パ」 (Ne M'oubliez Pas) を1871年(明治4年)に発売しました。そしてゲランは日本では明治時代が始まった時期までに、すでにフランスでの高級香水商の地位を確立することになりました。

1889年(明治22年)に、ゲランは「ジッキー」 (Jicky)という香水を発表します。この香水は天然素材と合成香料を加えて創られた初期の近代香水です。実際に合成香料を最初に用いた香水は、1882年(明治15年)にウビガン社のポール・パルケが作成した「フジュール・ロワイヤル」ですが、「ジッキー」は天然素材のローズマリー、ベルガモット、ラベンダーなどに加えて、合成香料のクマリンとバニリンをわずかに使用したことによって香りの多様な表現に成功してとても高い評価を受けることになりました。

シベット(霊猫香)の含まれるジッキーの香りは女性にとって革新的なものであったので、この香りは当初は男性を中心に評価されました。動物性の香料のシベットは、セクシーで後々まで残る香りが男性に好まれたようで、あのクレオパトラも使っていたとも言われています。最初は男性に評価された「ジッキー」は、1910年代に入って女性からの支持も集めていきました。。フゼア系の香水として知られる「ジッキー」は、エメの甥ジャック・ゲランの愛称・ジッキーから名づけられたという説と、若かい時のエメがイギリスに留学していた時に恋した女性の愛称から名づけられたという説があります。「ジッキー」の発売当時は、薬の瓶を香水瓶として使用していましたが、後にガブリエルがデザインしたバカラ社製の香水瓶を採用しました。同年1889年に、ゲランはパリ万国博覧会で香水部門を主催して審査委員長を担当します。1900年のパリ万博博覧会で香水部門のグランプリを獲得しました。また1890年(明治23年)にゲランたちが全仏香水製造組合を設立します。その議長にはエメが就任して、エメの後を受けて3代目調香師となるジャック・ゲランが「オンブル」 (Ambre) を発表しました。そしてエメは1910年(明治43年)に亡くなりました。

3代目ジャックの時代

1912年(明治45年)、ゲランは「ルール・ブルー」 (L'Heure Bleue) を発表しました。「青の時」を意味する名前を持つ香水は、パリの黄昏の空を表現したフローラルオリエンタル系の香水でした。その香水瓶にはバカラ社製「ジャンダルム」を使用しました。この時期には、新興の香水商としてフランソワ・コティ(香水商で大富豪)が台頭し始めていました。

コティは、アール・ヌーヴォーの宝飾家のルネ・ラリックにデザインを依頼して、彼の手による香水瓶やパッケージは支持を集めていきました。香水瓶のデザインと芸術性はコティの登場によりマーケティング上の重要性を高めていきました。ゲランもこの時期に前後して、香水瓶のデザインを変更しています。「ジッキー」の香水瓶にはバカラ社製「ギャドリドーブ」を採用して、1904年(明治37年)に発表した香水「シャンゼリゼ」 (Champs-Élysées) には亀甲をモチーフとしたバカラ社製「トルテュ」を採用しています。

1914年(大正3年)に、ゲランはシャンゼリゼ通り68番地に店舗を開きました。そして第一次世界大戦後の1919年(大正8年)、ゲランは『ラ・バタイユ』(蝶々夫人)の登場人物の名を冠したシプレ系(ベルガモットやオークモスを基調とした上品な香り)上品の香水「ミツコ」 (Mitsouko) を発表しました。ミツコは1908年(明治41年)に合成されたアルデヒドC14による桃の香りをふくませていて、ルール・ブルーと同じくバカラ社製のジャンダルムを香水瓶としました。ミツコはその後、香料に含まれるアレルゲンの問題によって処方に変更がなされています。

1925年(大正14年)、パリ万国博覧会でオリエンタル系の香水「シャリマー」 (Shalimar) を発表しました。多めのエチルバニリン(バニラ豆の香り成分)を使ってベルガモット、ローズ、ジャスミンなどの香りを引き立てたこの香水の名前はシャリマール庭園に由来しています。サンスクリット語で「愛の殿堂」を意味していて、レイモンド・ゲランとバカラ社による香水瓶はムガール帝国のストゥーパ(仏塔)をモチーフにしています。ゲランはこの万国博覧会で香水部門の審査員長を務めました。「シャリマー」はオリエンタル系の手本となる成功を収めことりになって、この後ゲランはアメリカ合衆国に拠点を置いて営業活動を開始しました。

1933年(昭和8年)、「ヴォル・ドゥ・ニュイ」 (Vol de Nuit) を発表します。この香水の「夜間飛行」を意味する名前はジャックの友人でもあるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「夜間飛行」と同じ名前の小説から名づけられ、香水瓶には飛行機のプロペラをイメージして放射状に広がる複数の立体的な線形を前面に施した凝ったデザインを採用しました。1937年(昭和12年)には「コック・ドール」 (Coque d'Or) を発表して、二枚貝をブルーガラス製の瓶全面に黄金の塗色を施す装飾を持たせたバカラ社製香水瓶を採用しました。

1939年(昭和14年)にはシャンゼリゼ通り68番地の店舗3階に美容学校を開業しました。ゲランはシャンゼリゼの店舗デザインに、インテリアデザイナーのジャン・ミッシェル・フランクを起用そして彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ、イラストレーターのクリスチャン・ベラールを起用しています。

4代目ジャン=ポールの時代

第二次世界大戦後の1955年(昭和30年)、ゲランは4代目の調香師となる18歳のジャン=ポール・ゲランが祖父ジャック(2代目)との共作を発表します。1959年(昭和34年)には庭師が発する土と煙草の香りをモチーフに調香した香水「ベチバー」 (Vetiver) を発表しました。そしてゲランの3代目のジャックは1963年(昭和38年)に亡くなりました。

1969年(昭和44年)、フローラル系の香水「シャマード」 (Chamade) を発表しました。フランス語で「熱き鼓動」あるいは籠城した軍が降伏する際に打ち鳴らす太鼓の音を意味する名前です。ヒヤシンス、カルバナム、ブラックカラントなどの香りを調和した香水になっています。この香水にはレイモンド・ゲランが貝殻をモチーフにデザインした香水瓶を採用しました。

1970年(昭和45年)にゲランは日本に進出します。日本に現地法人を設立しました。

1974年(昭和49年)ジャン=ポールの父ジャン=ジャック・ゲランらが調香師の学校ISIPCA (Institut supérieur international du parfum, de la cosmétique et de l'aromatique alimentaire, 香水・化粧品・食品国際高等学院) を設立しました。

1960年代以降に、アメリカでの香水の需要が拡大していきました。そしてまた新規参入する業者の増加にしたがって広告戦略の重要性が増していきました。そんな背景もあってゲランは1970年代以降に積極的な広告戦略を推進していきます。

1984年(昭和59年)、パウダー「テラコッタ」 (Terracotta) を発売してこの「テラコッタ」を発売します。「テラコッタ」は細かいパウダー状になっていてブロンズのニュアンス(日焼けしたような)を出すもので、これがパリでヒットとなりました。1987年(昭和62年)には、空から舞い降りる隕石をイメージしたカラーボール状のパウダー「メテオリット」 (Météorites) を発売します。いろいろなカラーがボール状になっていて、筆で転がして使うものですが斬新なデザインと形状でこれもまた好評を得たヒット商品になりました。そしてこの年には大きな出来ことがありました。同年に、ベルナール・アルノー(フランスの実業家)が率いるLVMHがゲランの企業買収を開始しました。

1989年(平成元年)、ゲランはウッディ系(暖かみがあって持続性が高い)の香水「サムサラ」 (Samsara) を発表しました。サンスクリット語の「輪廻」に由来する名前になっていて、白檀とジャスミンなどの香りを調和した香水です。ジャン=ポールの話によると、サムサラは香りの決定までに309回の処方を要したといいます。

従来のゲランでは、調香師が香りを完成させてから、香水瓶を選定して命名します。そしてその後に、広告活動を開始する手法を採ってきましたが、この香水ではその順序を改めて、まずテーマを決めて(この場合は東南アジア)テーマを決定した後に香りの創作を開始しました。この「サムサラ」には5000万ドルの広告費が投じられました。「サムサラ」が成功を収めた後の時期には、ゲランの全世界における売上高は日経産業新聞によると20億フラン (1992年:平成4年)で、純利益は1億6200万フラン (1993年:平成5年)となりました。

1994年(平成6年)、買収を進めていたLVMHが、発行済み株式の58.8%を取得したことによって、ゲラン社はLVMHグループの傘下に入ることになりました。1996年(平成8年)にLVMHがゲラン社の発行済み株式を100%取得したことによって、創業者一族のゲラン家はゲラン社の経営から離れることになりました。4代目のジャン=ポールはその後も社に残りました。2002年(平成14年)までゲラン社と雇用関係になっていました。

2005年(平成17年)にシャンゼリゼ通り68番地の店舗を改装して、地上3階の「メゾン・ド・ゲラン」 (La Maison de Guerlain) が完成しました。

2008年(平成20年)ティエリー・ワッサーが5代目調香師に就任しました。

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